NEWS

TOPICS 2017/04/22 GM – HERCULES 発売記念 松本慎吾(日本体育大学レスリング部監督) 特別インタビュー

GM – HERCULES 発売記念 松本慎吾(日本体育大学レスリング部監督) 特別インタビュー

SUPLEX スペシャルコラボ「GM - HERCULES」。
来る2017年4月22日の発売を記念して特別インタビューを企画しました。

日本人が苦手とする重量級で2度の五輪出場やアジア大会優勝など、日本レスリング界重量級のエースとして活躍した松本監督。今回はSUPLEXだけに明かした秘話や選手生活の転機となったシドニー五輪予選。また強化委員長として臨む東京五輪など、自らの言葉で熱く語ってくれました。


■柔道の強化を目的で始めたレスリング

-今日は宜しくお願いします。早速ですけど、松本監督がレスリングを始めたきっかけを教えて下さい。

中学校の恩師が日体大レスリング部OBで柔道部の顧問という関係で、柔道の強化の一貫でレスリングの大会出場やレスリングを取り入れてみようじゃないかと・・・。まぁ少し興味もあったので何となく始めたのがきっかけです。

なるほど。

でもこれ結構知らないレスリング関係者も多くなってきてると思うんですケド・・・。

-何ですか?

これでも僕「全中チャンピオン」なんですよ(笑)

-えっ!そうだったんですか!!

はい。だから水戸の体育館にも3年生の時に行きましたし、レスリング強豪校からも熱烈に勧誘も来たりしました(笑) 当時は柔道部だった関係で柔道の方でもメンバーが揃っていましたから、団体戦で全国大会にも出場しました。そんなメンバー達とそのまま地元の高校へ進学して、高校でもみんなで全国を目指すという気持ちでしたから。地元の高校へ入学してからは当然のように柔道がメインになりましたね。

-柔道一筋の高校生活になったんですね。

はい。でも中学校の恩師は地元の中学で働いていたので、恩師からは高校進学後も「タイミングが合えばレスリングの大会に出場してみては?」と何となく言われていました。


■突然姿を消したインハイ3位。そして国体優勝

-高校入学してからはどんな感じでした?

全中の団体戦に出場したメンバーと日々切磋琢磨したものの、成長する、しない、というところで最終的な結論から言えば、柔道の方では団体でインターハイに出場することが出来ませんでした。でも個人戦では高校3年生の時に出場したインターハイで2位という結果を残すことができました。

-柔道インターハイ個人2位は凄いですね。ちなみに決勝の相手は?

決勝の相手は後に国際大会等で活躍をした元旭化成所属の斎藤制剛選手です。

-その実績から、やはり柔道で五輪を目指すという気持ちはありましたか?

う~ん。その前の段階で高校2年の時の話をすると、インターハイの県予選で決勝で敗れて出場出来なかっかので、中学校の恩師から「レスリングでインターハイに出てみるか?」と打診があり、レスリングでインターハイに出場したところ3位。

-えっ!3位ですか!!

はい(笑) だからインターハイはレスリングで3位。柔道で2位。

-この成績は探してもいないですよね?

多分こんな成績を残した選手は当時・・・。私だけだったと思いますよ!(笑) だからレスリングの関係者からすると「あれ?去年3番だった足の太い選手何処に行ったんだ?」と思っていたんじゃないかと(笑)

-インターハイ3位になったのは高校2年ですか。ちなみに階級は?

一番重い階級の115kg級です。 だから何処に行ったんだと思われていて「あれっ??」っていうのはあったと思います。そうしたら1年後の国体のグレコに「あいついたな!」って感じです。

-で結果は?

グレコで優勝しました! 最後の国体には中学校の恩師と前々から話して、柔道の県代表でもあったんですけどレスリングで出てみようと決めていました。

-柔道インターハイ2位でありながら最後の国体はレスリングに出場。

そうです。だから愛媛県の柔道関係者からすると「ふざけるな!」という感じだったと思います。 それは当時の高校の指導者からも言われました。

-大変でしたね。

うん。でも大学進学後はレスリングでという気持ちに少し流されていたので、国体の会場で恩師でもある藤本英男先生(当時・日本体育大学レスリング部監督)からハッキリ「五輪を目指すのならウチの大学に来なさい!」という一言で日体大の進学を決めました。

-大学進学後は順調に?

いえいえ。大学進学後は本格的にレスリングを始めたものの、柔道とレスリングで異なる部分も多くあり、大学1年生の時には投技に頼ったりして勝ったり負けたりの繰り返しでしたよ。そのレスリングがしっかりとした形で身に付いてきたのは2年の頃ですかね。だから2年から4年までグレコでインカレ優勝。それと並行してフリースタイルもリーグ戦や内閣で経験しました。4年の時にはシニアの国体や全日本で優勝してシドニー五輪の予選という流れですね。


■︎「レスリングと柔道」 共に高めあえた存在に

-話が前後しますけど。柔道とレスリングの二足の草鞋で過ごした高校生活では両方のインターハイでメダルを獲ってます。大学進学後にレスリング一本に選択した時の迷いはありましたか?

正直。これ本音ですが・・・。柔道は小学校5年生の終わりから始めて高校まで続けて全国で2番。でもレスリングというものは、ほぼまったくやってない状態で全国で1番。将来的な事を考えると恩師の藤本先生が言われたように「オリンピック」って自分のレスリングって何処まで可能性があるのだろうと純粋に考えました。まったくやっていない状態で日本のトップに立てた。これから本格的にやったらどれだけ自分のレベルを高められて行けるのかなという可能性に自分自身懸けてみたところがありました。

-レスリングに対する未知数の部分にですね。

そうです。大学に入ってからは二足の草鞋では絶対にダメだと思ったので。だからレスリング一本で勝負することにしましたね。

-柔道とは違うレスリングの難しさや慣れないところはありましたか?

それはまったく無いです。始めて出場したインターハイの舞台では「レスリングを本格的にやってない」というところで、気持ち的にはおもいっきり、とにかくおもいっきりやってやろうという気持ちで出ましたから。

-気負いとかも?

まったく無いです。だから投技も躊躇せず出来たと思います。レスリングでメダルを取れたことによって、柔道でもインターハイでメダルが取れたと思います。「レスリングと柔道」。いま思うとお互いが私のなかで高めあえた存在だと思っているので。また中学校の恩師が本当に良い出会いをさせてくれたなと感謝しています。


■レスリングの転機となったシドニー五輪

-中学校の恩師との出会いや藤本先生の一言など。松本先生にとってレスリングにおける転機って何時ですか?

ん・・・・・。やっぱりシドニー五輪ですね。

-アテネ五輪とか北京五輪ではなく。

はい。シドニーです。これもあまり話したことはないですけど・・・。当時大学4年生で全日本チャンピオンまで駆け上がって予選に行くなかで、最終的に言うとシドニー五輪には出られなかった。当時の同級生で言えば私と山梨県で教員をやっている平井満生(みつおき)先生の2人がグレコローマンスタイルで全日本チャンピオンになりました。お互い予選に行くなかで、もう一人2位であった笹本睦コーチ。笹本コーチより良い立場にあった私と平井先生。私は予選でポイントが獲得できず国に与えられる出場権を取れませんでした。平井先生は予選でポイントを取って来ましたが、国内のプレーオフで元木さん(自衛隊)に負けてシドニーの舞台には立てませんでした。一方笹本睦コーチは西見さん(自衛隊)と争うなかで、予選でポイントも取り、国内のプレーオフで勝利してシドニーの舞台に立ちました。正直同級生でありながら出場できなかった自分がいる。悔しい気持ちで一杯でした。同期としては笹本コーチを応援したい。反面「なんで俺はあそこにいけなかったのだろう」と悔しい気持ちが毎日続きました。

-同級生だけにそこは複雑な気持ちですよね。でも更に五輪が身近に感じたのでは?

そうですね・・・。五輪は夢舞台から身近な目標として捉えることが出来たにも関わらず、心の何処かに「行けたらいいな」という安易なところだったので。本当に悔しい気持ちと、もっともっと高いレベルまで目標設定をしないと五輪の舞台には辿り着けないなと思いました。

-ここから世界への挑戦が始まったんですね。

国内は勿論のこと、海外でも結果を残していかないと駄目なので、2000年のシドニー五輪以降は2001年東アジア大会で優勝。2002年アジア大会優勝と国際大会でも結果を残せるところまで成長しました。最終的にアテネ五輪、北京五輪に出場できたと思います。

-あのシドニー五輪の予選がレスリングの転機だったんですね。

はい。あの予選から選手として多くを学び、同時に悔しさを忘れず日々練習に励みました。


■︎多くの人が支えてくれた現役生活 本気になることが大事

-では松本先生のレスリング人生において学んだことは何ですか?

人生観や人間力等で。 こういう競技なので選手なら選手。指導者なら指導者と携わるなかにおいて感じる部分。例えば選手時代で当時お世話になった伊藤コーチ(自衛隊)や藤本監督は常に本気になって私を指導してくれました。それは一緒の時間を共有するなかで指導者を感じる部分になりました。また卒業後は地元の企業でもある一宮運輸という会社にサポートしてもらい、本当に良かったと思うのは会社組織にあって、本当に親身になって地元の選手を応援しようという姿です。世界選手権であったり国際大会等にも実際5人程の人数が現地へ応援に駆けつけてくれたこともありました。それだけ応援してくれる人もいる。そのような環境で家族をはじめサポートしてくれる人たちの為に頑張らないといけないと強く思いました。競技を続けてさせて頂くなかで本当に多くの人達の支えがあって「自分自身があるんだと」という人間的な成長にも繋がりましたし、レスリングを続けてて良かったなと素直に思いました。

-でも支えてもらう選手も本気にならなければ意味がないですよね。

本気で夢を叶える姿に周りは「応援したい!」という気持ちになりますからね。 だから指導者となったいま、そのような気持ちであったり行動であったり、選手が本気なら指導者も本気にならないといけない。また東京五輪に向けて強化委員長としての役職を任されて、なにがなんでも全階級で出場させたい。そしてリオ五輪で取れなかった金メダルを選手に取らせてやりたいという強い気持ちで指導に携わっています。

-競技は違っても同世代で活躍する柔道の井上監督から刺激は受けますか?

やっぱり良い刺激です!!(笑)


■︎東京五輪に向けて

-先程から「東京五輪」というキーワードが出てきたところで、強化委員長として迎える東京五輪とは、自身にとってどんな五輪になりますか?

まず東京五輪を目指す学生をはじめ、OBでも目指せる選手は幸せだと思います。それは何でかと言えば、現役選手として心身ともに一番良い状態で4年に一度、しかも東京で五輪を迎えることができる点にあります。これはタイミングもありますが、自国開催の五輪を目指せることは本当に幸せなことだと思います。これは何度も学生たちには話をしています。また指導者として自分自身の苦労は多いです。でも選手としてアテネ、北京。コーチとしてロンドン、リオ。この東京では強化委員長として5大会連続で五輪に関わることができる幸せと、それ以上に責任も感じています。

◎東京ではお家芸「レスリング」にかかる期待は相当なものですよね。

はい。前回大会のリオではグレコローマンスタイルに2階級に出場しましたが、自分の強い想いとしては東京では全階級で出場させたい。頂点でもある金メダルを東京で取らせてあげたい。巡り合わせもあって強化委員長の職を任された幸せもありますが、強化委員長として最大限責任を持って取り組まなければならないと思っています。また東京で終わりではなく、2024年やその先にある五輪にも繋げていく使命も感じていますし、若い世代の指導者にも最高のカタチでバトンタッチ出来るようにしなければならないですね。

-強化委員長として指導で心掛けている点などあります?

自分が生きてきた時代と違いますから、いまの選手たちは俗に言う「現代っ子」ですから、その辺を十分に理解した上で指導するよう心掛けています。まずは選手に向き合う前に自分自身に厳しくありたいですね。

-毎日が充実している松本監督のことですから、東京五輪まであっという間だと思います。我々SUPLEXとしても松本監督の「想い」が東京五輪で実現できるように祈っています。

心強いお言葉ですね。ありがとうございます。


■SUPLEXに一言︎

-それでは最後となりましたがSUPLEXに一言お願いします。

純粋にレスリングを広める上でSUPLEXの活動は必要だと思います。ウェアを通じてレスリング選手がカッコ良く見えることも人気を向上させる一助になりますね。またSUPLEXが企画するイベントなど広く多くの人たちに発信できることは素晴らしいことだと思います。今後もカッコいいウェアを期待してます。

-ありがとうございます。弊社も松本監督の期待を裏切らないよう、レスリングを知らない人たちに広めて行けるようスタッフ一同、精進します。本当に今日はありがとうございました。

こちらこそありがとうございました。


森コウジ=文


松本慎吾(日本体育大学レスリング部監督)
1978年3月3日生まれ39才 愛媛県宇和島市出身 愛媛県立津島高等学校~日本体育大学大学院卒業
高校時代は柔道とレスリングの選手として活躍。柔道でインターハイ2位になるなどの腕前で柔道でも高校トップクラスに。大学入学後はレスリングに専念し1999年の全日本選手権で初優勝。永きに渡り日本重量級のエースとして君臨。得意技は相手を持ち上げて豪快に投げ飛ばす「俵返し」。
2016年9月26日、日本レスリング協会理事会で男子グレコローマンスタイルの強化委員長に就任。
【主な戦績】
1999年 全日本選手権初優勝
2001年 東アジア競技大会優勝
2002年 釜山アジア大会優勝
2004年 アテネオリンピック 7位
2006年 ドーハアジア大会3位
2008年 北京オリンピック出場15位